93年、ドラフト1巡目11位で指名されて、テネシー大から
ピストンズに入団。
96年7月、FA権を行使して
ニックスと契約。
98-99年シーズンには、カンファレンス8位でぎりぎりプレイオフに滑り込み、支柱である
“キングコング”こと
パトリック・ユーイング
や、
ラトレル・スプリーウェル
、
マーカス・キャンビー
らと共にファイナルに進出したが、“ツインタワー”を誇るスパーズに1勝4敗で敗退。
その後も、主力の引退や移籍が重なり、エースの重責が重くなる一方で、99-00年シーズンには、
平均19.7得点(NBA21位)、FG%.436(NBA5位)、
01-02年シーズンには平均得点を20点に乗せ、
翌02-03年シーズンには初めて得点でトップ20に入る22.5得点をマーク。
しかし、03年オフにはもう一つのオプションだった
ラトトル・スプリーウェル
が大型トレードでチームを離れ、そのトレードで新しく加入した
キース・バンホーン
と共に再起を託された。
04年1月、今度はサンズから
ステフォン・マーブリー
や
アンファニー・“ペニー”・ハーダウェイ
などを獲得し、2月にはキース・バンホーンを放出するなど大改革が行われたが、新しいチームでもポイントゲッターであり、フィニッシャーであることは不変の現実である。
3ポイントを含めたシュート確立で高い決定率を誇る生粋のシューターで、3ポイント成功数1187は歴代16位(03年終了時点)。
99年、米国代表に選出され、2000年のシドニー五輪出場に貢献。
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