Sammy Sosa
[Samuel Sosa]
Texas Rangers
(OF&DH/右投右打/背番号:21)

1968年11月12日生
ドミニカ共和国出身

7歳の頃に父親を亡くし、靴磨きなどをして生計を助けた。そんな状況の中でアメリカン・ドリームを夢見ながらベースボールに励み、 15歳で フィリーズ の野球アカデミーに入学し、翌年に レンジャース のトライアウトを受けて入団。 当初は、積極性と脚力には目を見張るものがあったが、打撃では大振りが目立つ選手だった。 89年、1Aで打率.229ながら42盗塁、リーグトップとなる12三塁打をマーク。90年は2Aで開幕を迎え、66試合に出場した後、6月16日に突如としてメジャーからお呼びがかかった。記念すべきメジャー初ホームランは、レッドソックスの豪腕 ロジャー・クレメンス 投手から放った。


しかし、その後は不振が続き3Aへ降格するなど本領を発揮できないまま、7月29日に ハロルド・ベインズ らとの交換トレードで ホワイトソックス へ放出された。ちなみに、当時のレンジャースGMは現アメリカ大統領のジョージ・ブッシュ であった。 8月末にメジャー再昇格を果たし、翌90年には初めてフルシーズンを過ごして、二塁打(26)、三塁打(10)、本塁打(15)、打点(70)、盗塁(32)のすべてで二桁を記録した唯一の選手だった。


92年、同じシカゴに本拠を構える カブス へ移籍したが、この年は2度も故障者リスト入りするなどして66試合しか出られなかった。 93年は、159試合の出場で33本塁打、36盗塁を挙げて、球団史上初の「30-30」クラブ入りを果たした。2年後の95年にも打率.268、36本塁打、119打点、34盗塁をマークして、2度目の「30-30」を達成。 96年、年々研ぎ澄まされていく長打力により一層の磨きがかかり大台だった40本塁打に到達。 97年には、36本塁打、119打点、22盗塁を挙げて、メジャー通算1000本安打、200本塁打にも到達。しかし、リーグトップの174三振を記録するなど典型的なホームランバッターへと変貌を遂げていった。
そして迎えた98年、 ロジャー・マリス のシーズン61本塁打が俄かに騒がれ始め、本命と目されていた マーク・マグワイア 一塁手が5月終了時点で27本塁打も打ち、タイトル独走かと思われていた。しかし、6月にメジャー記録となる月間20本塁打を放り込み、一気にホームランレースは白熱した。最終的に、 マーク・マグワイア に4本及ばなかったが、歴代2位(当時)の66本塁打をマークし、世界中を熱狂の渦へと招待した。この年は、意外にも初タイトルとなる打点王(158)と最多得点(134)を獲得し、チームをワイルドカードながらポストシーズンに導いたことも評価されてナ・リーグMVPを受賞。
その後も、2000年本塁打王(50本)、01年打点王(160打点)して、MVP投票ではシーズン本塁打記録を塗り替えたジャイアンツの バリー・ボンズ 外野手に次ぐ2位の評価を受けるなど、 常にタイトル争いに絡むハイレベルな成績を残し続けている。 03年、練習中にファンサービスのために使っていたコルク入りバットを試合で使ったため、 強烈なバッシングと共に出場停止処分を科せられた。しかし、チームを●年振りの地区優勝まで導いた。


98年から4年連続50本塁打以上を達成し、60本塁打以上を3度(98,99,01年)記録した唯一の選手でもある。 「30本塁打&30盗塁」を2度(93,95年)達成。 95,98〜02年、シルバースラッガー賞。 98年、ロベルト・クレメンテ賞。 99年、ハンク・アーロン賞。 母国に野球道具は勿論、球場などを寄贈するなど課外活動も超一流として知られ、ドミニカではヒーローとして崇拝されると同時に深く愛されている。 ホームランを打った後のパフォーマンスは、母国の母親に捧げている。

(C) Champions

[★高収入が可能!WEBデザインのプロになってみない?! Click Here! 自宅で仕事がしたい人必見! Click Here!]
[ CGIレンタルサービス | 100MBの無料HPスペース | 検索エンジン登録代行サービス ]
[ 初心者でも安心なレンタルサーバー。50MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。 ]


FC2 キャッシング 出会い 無料アクセス解析