92年に陸上競技でジュニア・オリンピックに出場するなどその高い運動能力が注目を集め、翌93年のドラフト1巡目全体10位で指名されて、地元のパイン・ブラフ高校から
ツインズに入団。
97年8月22日に代走でメジャーデビューを飾るも、この年はこの1試合に終わり、翌98年も6試合に留まるなどメジャー定着には時間を要した。
99年、ついに開幕からメジャーで迎え、主にセンターを守りながら、135試合に出場。打率.255、9本塁打など打撃で見せ場はなかったが、守備では守備率.997と抜群の安定感を誇った。
2000年は再び降格してしまい、約2ヶ月間をマイナーで過ごしたが、それでもメジャーに復帰してから12補殺を記録するなど守備力は既にメジャークラスであることを証明すると、翌01年にはチームトップの27本塁打、同2位の92打点、82得点を挙げるなど、ついに打棒でも才能が開花し、自慢の守備でも、センターに定着してリーグ2位タイの14補殺を記録して初のゴールドグラブ賞を受賞し、チームの顔になるまで成長した。
02年もチームトップの29本塁打、94打点、23盗塁、37二塁打を記録し、球団史上5人目の「20-20クラブ」を達成すると、消滅が囁かれたチームを11年ぶりの地区優勝に導き、自身初のポストシーズンを経験し、自身はMVP投票で6位に入った。チームで95年のカービー・パケット以来のスタメン出場したオールスターゲームで
は、バリー・ボンズが打ったホームラン性の当たりをスーパーキャッチして「ホームラン・ハンター」と名付けられた。オフにはロベルト・クレメンテ賞を受賞し、さらに日米野球では第1戦と第3戦でホームランを放つなどしてMVPを受賞した。
オフに4年契約を結んで迎えた03年は、チームトップの本塁打(26)と打点(102)をマークし、チームの外野手としては、96年のマーティ・コルドバ以来の100打点をクリアーすると、翌04年は
、4月に右ハムストリングを痛めて故障者リスト入りしたが、チームトップの二塁打(37)と打点(81)を記録して地区3連覇に大きく貢献した。
05年、自己最多タイの23盗塁以外は怪我の影響で軒並み数字を落とし、チームの連覇も途切れたが、翌06年は自己最多の31本塁打とパワーも発揮し、34本塁打のジャスティン・モルノーと共に、チームとしては1987年以来となる30発コンビを形成して、再び地区王者に返り咲いた。オフには、メディアとの良い関係を築い
た選手に贈られるマイク・オウガスティン賞を受賞。
球団がオプションを行使して年俸1200万jで再契約した07年は、リーグ4位の45二塁打、同7位の28本塁打、同10位の107打点をマークして、2度目のオールスター出場を果たした。
契約が満了したことでオフ最大の注目選手となり、引く手数多の中から最終的に総額9000万jの5年契約という大型契約を提示した エンゼルスを選択。 01年からゴールドグラブ賞を連続で受賞するなど、外野の守備はメジャー最高級で、塀を上手く使うことから“スパイダーマン”とも呼ばれている。 アフリカ系黒人の野球人口が激減していることに危機感を覚え、「トリー・ハンター・プロジェクト」を立ち上げて黒人野球選手振興プログラムを行っている。このプログラムは、他のアフリカ系プレイヤーに寄付金を募り、それを大リーグ機構が行う振興プログラムとは全く別に4都市のリトルリーグチームをサポートす るもので、このプログラムに ケン・グリフィーや ゲイリー・シェフィールド、シャンノン・スチュワート、 デレク・リーなどが賛同している。
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