スプリングウッズ高からテキサス大へ進学し、2年間で25勝7敗、241奪三振を記録し、83年には全米王者に大きく貢献。
その活躍が認められ、大学での背番号「21」は永久欠番に指定された。
83年、ドラフト全体19位で指名され、テキサス大から レッドソックス に入団。84年5月にメジャーデビューを果たすと、 2年後の86年、24勝4敗、防御率2.48、238奪三振で最多勝&最優秀防御率に輝き、初の サイ・ヤング賞に加え、ア・リーグMVPを同時受賞した。 この活躍もあり、チームをア・リーグ優勝に導くが、ワールドシリーズでは「ミラクル・メッツ」と言われ驚異的な快進撃を見せたメッツに惜敗。 翌87年も、20勝9敗、防御率2.97、256奪三振、18完投7完封で最多勝に輝き、 2年連続サイ・ヤング賞を受賞。 88年、初の奪三振王(291個)を獲得。 それと同時に14完投8完封と言う驚異的な数字も挙げた。 90年、21勝6敗、防御率1.93、209奪三振で2度目の最優秀防御率を受賞。 91年、最優秀防御率(2.62)と奪三振王(241個)を獲得し、 3度目のサイ・ヤング賞を受賞。 翌92年も3年連続となる4度目の最優秀防御率(2.41)を獲得。 93〜96年は、96年の奪三振王(257個)以外は、本人曰く「やる気がなかった。」と言うように、 40勝39敗と今までの成績からは考えられない結果に終わった。 数々のタイトルで結果を示したが、レッドソックスではワールドシリーズ出場1度(86年)だけに終わったことで頂点には立てないと判断して、97年に ブルージェイズ へ移籍。 ここでは、2年連続投手3冠(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振)を達成して 2年連続サイ・ヤング賞を受賞し、力が衰えていないことを強く証明した。 しかし99年、頂点に立つためだけを目的に名門 ヤンキース へ移籍し、99〜2000年のワールドシリーズ連覇に貢献し、念願のリングを指にはめた。 01年、20勝(2位)3敗、防御率3.51、213奪三振を挙げ、史上最多となる通算6度目のサイ・ヤング賞を受賞。 7年連続(86〜92年)200奪三振以上はア・リーグ記録。1試合20奪三振の大リーグ記録を2度(86,98年)達成するなどして積み上げた通算奪三振数3909(02年終了時点)は、歴代3位。 通算300勝、4000奪三振を達成した03年をもって現役引退を表明していたが、米国がオリンピックに出られなくなったことや、親友の アンディ・ペティット 投手がアストロズへ移籍したこともあって引退を撤回し、 アストロズ と1年500万jで契約。。 その豪球から付けられた「ロケット」の愛称で、ファンは勿論、選手からも敬意を評され、4人の息子たちの名前は、全員“ K ”(=三振の意)から始まっている。
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