ケビン・ブラウン --- Champions
Kevin Brown
[James Kevin Brown]
New York Yankees
(投手/右投右打/背番号:)

1965年3月14日生
米ジョージア州ウィルキンソン・カウンティ出身

幼少期はアメフトや野球、テニスに励む。 ジョージア工科大へ進学し、3年間で通算28勝、149奪三振を記録。
86年、ドラフト1巡目4位で指名され、 レンジャース へ入団。 ルーキーリーグで3試合投げて、2Aのタルサに昇格。 ここでも3試合投げただけで、8月末にはメジャーに引き上げられ、初勝利(当時の監督はボビー・バレンタイン監督)を挙げた。 プロ1年目のルーキーがメジャーでいきなり勝利投手となったのは、史上3人目の快挙だった。 しかし、2年目は1A〜3Aを渡り歩き、1勝11敗に終わった。 88年は2Aで26試合に登板し、12勝10敗。 9月にメジャー再昇格し、3試合に登板して1勝1敗、防御率4.24をマークし、新人王資格年の89年は、12勝9敗で防御率3.35を残し、新人王投票で5位にランクインした。 90年も12勝10敗、防御率3.60で、2年連続の二桁勝利をマーク。 91年は9勝12敗と負け越したが、翌92年には21勝11敗でツインズの ジャック・モリス 投手と共に最多勝を獲得し、 オールスターゲームでは、栄えある先発を務めた。


94年を最後にFA宣言して オリオールズ へ移籍したが、6月に右手の人差し指を脱臼してしまい、10勝9敗に終わる。


オリオールズとは1年契約だったため、95年12月22日に マーリンズ と契約。1年目は17勝11敗、防御率は驚異とも言える1.89で最優秀防御率を受賞。 ハイライトは、97年6月10日のジャイアンツ戦で達成したノーヒットノーラン(1死球)。 そして同年には、 強力打線で勝ち進んできたインディアンスを倒して、チーム創設以来最速(当時)でのワールドシリーズ制覇に貢献。


しかし2ヵ月後、大胆なリストラ策を試みるチームにより、トレードで パドレス へ移籍。ここでは投手コーチのデーブ・スチュワート(元アスレチックスのエース)に多くを学び心身ともに大きく成長。 パドレス在籍は1年間だけだったが、自己最多の36試合に登板し、 18勝7敗、防御率2.38を挙げ、チームをナ・リーグ優勝に導いた。プレイオフでも順当に勝ち進み、自身としては2年連続でワールドシリーズの地を踏んだ。 しかし、ヤンキースの前に、 トニー・グウィン 外野手ら打線が沈黙するなどしてスイープで敗れ去った。


同98年12月、当時の史上最高、MLB史上初の1億jプレイヤーとなる7年総額1億500万j(当時のレートで約126億円)で ドジャース と契約。 契約条項には、自宅のあるメイコンとロサンゼルス間の飛行機が不便だったため、家族のためのチャーター便も含まれていた。 01と02年は右肘の故障でローテーションを守ることが出来なかったが、95〜01年まで7年連続で二桁勝利、96〜01年(99年=ERA 3.00)まで防御率2点台以下、97〜00年まで4年連続で200奪三振以上などメジャーでも指折りの大投手であることを証明するかのように、03年には14勝9敗、リーグ2位の防御率2.39を挙げ、全盛期に近いピッチングを取り戻した。

03年オフ、先発の3選手が抜けた ヤンキース へ、 ジェフ・ウィーバー 投手ら3選手+金銭240万jとの交換トレードで移籍。

(C) Champions

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