【ディエゴ・マラドーナ】
Diego Maradona

1960年10月30日生
アルゼンチン・アムステルダム郊外出身

8人兄弟の5番目(長男)として生まれる。 68年12月、アルヘンチノス・ジュニオールス幼年部チーム「ロス・セボジータス」に入団し、 100戦無敗記録を樹立。 74年3月、アルヘンチノス・ジュニオールス9軍に正式にプロ登録。 76年10月20日、15歳(史上最年少)でトップの公式戦デビュー(49試合19得点)。 77年2月27日、代表の親善試合に途中出場して史上最年少記録を樹立。 78年5月19日、自国開催のW杯メンバーから最終選考で漏れる。 79年5月26日、U-19(主将)と掛け持ちで、A代表に再び招集され、6月2日に代表初得点。 9月7日、日本で開催された第2回ワールドユース選手権で優勝。 自身は大会MVPに選ばれ、南米最優秀選手賞も獲得した。 80年、2年連続で南米最優秀選手賞を受賞。 81年2月、ボカ・ジュニアーズにレンタル移籍。 40試合で28得点の活躍でリーグと国内選手権の二冠に貢献。 82年、W杯スペイン大会に出場するも、退場処分を受けるなどして予選敗退に終わった。 8月21日、1000万j(当時の史上最高額)でFCバルセロナへ移籍。 12月、ウイルス性肝炎にかかるが、翌83年3月に3ヶ月の闘病生活の末、復帰。 新監督は代表時代のメノッティ監督。 9月24日、アスレチック・ビルバオのDFゴイコエチェアの激しいタックルを受けて左足の靭帯を損傷し、再起不能と囁かれた。 84年1月8日、負傷から106日後に復帰。 6月30日、当時の史上最高額1200万jでナポリへ移籍(バルセロナ通算58試合38得点)。 85年、セリエA初シーズンは30試合で14得点を挙げてナポリを8位へ導く。 翌86年のW杯メキシコ大会では、準々決勝イングランド戦でピッチ上のフォークランド紛争と呼ばれ注目を集める中、 歴史上最も目に焼きつくゴールと不可解なゴールとなる「60b5人抜き」と「神の手(自称)」を披露。 決勝では、西ドイツを破って優勝。 圧倒的な個人の力によって優勝を勝ち取り、「マラドーナのための大会」と呼ばれた。 87年、ナポリを創設61年目にして初のリーグ制覇&イタリア杯優勝に導いた。 翌88年、リーグ2位で終わるが、自身は28試合15得点で得点王。 89年、リーグは昨季と同じ2位で終えるも、UEFA杯優勝。 90年2月4日、セリエA通算69得点で外国人選手の得点記録を更新。 5月、ナポリを2度目のスクデットに導く。 同年7月、W杯イタリア大会では主将として出場し、準決勝では地元のイタリアと対戦するが、 開催場所がナポリであったことで盛大な拍手で迎えられた。 決勝では、2大会連続で西ドイツと当たり、厳しいマークもあり敗戦。 子供のように泣きじゃくった姿は強烈な印象を与えた。 しかし、自身は3度目の南米最優秀選手を受賞。 91年3月17日、ドーピング検査で、「2週間前のコカイン残滓を検出」と発表され、 4月8日にイタリア・サッカー協会規律委員会から15ヶ月間の出場停止処分を科せられる。 4月26日、ブエノスアイレス市内のマンションで「コカイン使用」が見つかり逮捕される。 そして8月1日、「プロにも代表にも二度と復帰しない!」と引退表明。 92年7月1日、出場停止期間が終了し、「プレイ姿を見たことがない次女ジャニーナのためにもプロ復帰したい!」と表明。 9月22日、契約不履行で違約金を請求していたナポリと3ヶ月の交渉の末、セビリアへ750万jで移籍合意 (監督は前代表監督のビラルド)。 93年2月18日、アルゼンチン・サッカー協会創設100周年記念試合で代表復帰。 6月12日、ビラルド監督の交代指示に激怒。帰国し、引退を表明。 10月10日、ニュウェルス・オールドボーイズに400万j(推定)で移籍し、 12年ぶりにアルゼンチン国内の公式戦に復帰。 12月2日、国内リーグで負傷し、隠遁生活に入る。 94年2月2日、ブエノスアイレス郊外の別荘に押しかけた内外報道陣約200人へ空気銃で 約30発を発砲し、数名を負傷させた。 同年のW杯アメリカ大会に主将として出場し、ギリシャ戦での鮮やかなゴールや Gabriel Batistuta Claudio Caniggia らへのアシストを決め、 次のナイジェリア戦でW杯最多出場記録達成(当時)。 しかし、ナイジェリア戦後のドーピング検査で禁止薬物エフェドリン陽性反応が出て、 W杯出場停止の仮処分を受ける。 8月24日、FIFAが15ヶ月間の出場停止処分を発表。 10月、マンディジューの監督に就任するが、2ヵ月後に辞任。 95年1月6日、名門ラッシンの監督に就任するが、5月の会長交代に伴い、辞任。 9月30日、出場停止期間が終了し、翌日の10月1日に14年ぶりにボカ・ジュニアーズに復帰。 96年8月11日、5本目の連続PKミスを犯し、引退を表明。 翌日、依存症治療のためスイスへ渡る。 97年4月27日、22日にボカ・ジュニアーズと再契約で合意した後、 AIFP主催の世界選抜×欧州選抜に出場。 7月13日、336日ぶりに公式戦復帰。 99年5月11日、空気銃乱射事件に有罪判決が下されたが、上告。 W杯のオフィシャルウェブサイトのオンライン投票で集計された「歴代のW杯ベスト11」に 最多投票で選出された。 栄光と挫折を極めた史上最高のレフティーは、数々の記録を打ち立てたと同時に、 それと同じくらいに幾つもの汚点を刻んでしまったが、歴史上で王様Peleと並ぶ英雄であることは揺るぎない。

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